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空/折 「よる、あそぶ。」 :後 

空と折が夜遊びする(クラブに行く)だけの話。
なのに異様に長くなって自分でもびっくり。
ブログで見にくいかなぁ、と半分に分けてみました。


前篇はこちら。

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


よる、あそぶ。 <後>


「……キース、さん」
 確かめるようにイワンは名前を呼ぶ。
 普段と同じに笑うキースだが、その恰好はいつもとはかなり違っていた。
 まず、髪型が違う。ゆるいオールバックというか後ろと左右に前髪を流している。そのせいか、笑顔が違って見える。薄暗いフロアでも瞳の青さがよくわかる。もしかして眉も整えてあるだろうか。子どもみたいなきれいな色の唇、白い歯。ここにいるのは紛れもなくキースなのに、この人はこういう顔だったろうか、と記憶を手繰ってしまいそうになる。
 インナーの白いTシャツ姿は見慣れているが、今日は同じ白でもVネックのカットソーに胸元にはシルバーのアクセサリーが下がっている。その上に羽織ったリネン素材のロングカーディガンは淡いグレイ、デニムと編み上げのワークブーツは黒で、イワンから見ても着古したような恰好のいい色褪せ方をしていた。
 そういう服持ってたんですか、とイワンの口をついて出そうになって、いやそれは馬鹿にしてるみたいだろうと口をつぐむ。
 似合いますね、それとも素直に恰好いいです、と言えばいいんだろうか。いや、でも……とイワンは決まらないセリフに口を半開きにするばかりだった。
 すると、キースが笑みを深くして片手を挙げてイワンを指した。
「素敵だね」
「え?!」
 頭の中を覗かれたのかとポカンとした後で、キースの指先が自分の上を頭から爪先まで往復していることに気がつく。
「あ、え?! ぼ、僕ですか?!」
「すごく恰好いいよ」
 言おうとして逡巡していたことを、あっさりとしかも繰り返して告げられてしまい、イワンは咄嗟に視線を床に落としてしまう。
「……どうも」
 ボソリとそれだけをつぶやくと、自分の靴の先を見つめていたイワンの視界に横からキースのブーツの先が飛び込んできた。
「気を悪くしたかな」
 耳元でそう言われる。いつの間にかキースがすぐ隣に立っていた。普段のイワンの声のボリュームでは会話が成り立ちにくいことにキースも気がついているらしい。
「ま、さか」
 頬どうしを近づけたままの姿勢でキースは動きを止めていた。
 イワンのこぼした中途半端な単語では、発言がそこで終了したのかわからなくてキースは待ってくれているらしい。慌てて言葉を付け加える。
「ありがとうございます。でも、着慣れなくて…変なカンジです」
「私もそうだよ」
「それ……」
「驚いたよ。PDAにファ…ネイサンくんからコールが入ってね。何事かと思ったらこれさ」
 パトロールが終わる頃を見計らって自分の経営するクラブに立ち寄れと言ってきたらしい。
「この近くだからね。ここに来る前に寄ったら、何と着替えさせられてしまった。髪まで」
「それは…びっくりですね」
「せっかくイワンくんがお洒落をしてるのに、隣にいる人がいつもの恰好じゃ気の毒だと説得されたんだ」
「そんなこと…ない、のに」
「いや、さすが良いところに気がつくと感心していたんだよ。――どうかな?」
 キースは素直に感想を求めてくる。イワンはさっき口元まで出かかって引っ込めた言葉を、急いで引っ張り出した。
 顔を上げると、驚くくらいすぐそこにキースの顔があった。この近さで顔を見ながらなんて言えそうにない。首を斜めに伸ばして、耳元にささやくようにして言う。
「……か、恰好いいです」
「よかった。合格点をもらえたみたいで」
 合格っていうか優勝してます、と頭の中だけで返事をして、急に手の中の空になったビール瓶を思い出す。それから、これを奢ってくれた女の子たちのことも。
 恐る恐る首を伸ばすと、カウンターに凭れた女の子たちがクスクス笑い合っているのがキースの肩越しに見えた。勿論、二人ともこちらをしっかり眺めている。うわぁ、という顔になったイワンを見て、キースが振り返った。
「こんばんはぁ」
 女の子たちはヒラヒラと手を振りながら言った。キースも笑顔で「こんばんは」と返す。
「すごく、お似合い」
「それはどうも」
 女の子の褒め言葉にハキハキと応じている。キースは今日はステージを観に来たことを話し、女の子はそれならステージは下のフロアだよ、と教えてくれた。
 奥にいるほうの子が人差し指で交互にキースと自分とを指しているのがイワンの目に入った。お似合い、と唇が動いて、次に指がOKのマークを作る。
 イワンは飛び上がりそうになった。お似合い、というのは服装のことではなくて二人が似合っているということらしい。首を振ろうとしかけて思いとどまる。
 自分たちがお似合いだと言われているのは、つまり恋人どうしに見えるという意味だろう。お似合いの友人、という言葉はあまり聞かない。どこでそう知られてしまったのだろう。自分はそんなにのぼせあがった顔をしてキースに見惚れていただろうか。
 恥ずかしさにというよりは困惑で固まるイワンに、その女の子は指でOKのマークを作ってうなずいてくる。何が何だかわからない。
 イワンが握った瓶に目をやってキースは訊いた。
「ビールを飲んでるの?」
 はい、とうなずきながらイワンは何か言われるかとヒヤリとしたが、キースはそれ以上特にコメントしなかった。手を開くと握っていたコインを見せる。本物の通貨ではない。それは表面にこの店のロゴが彫られた蛍光グリーンのコインだった。
「これで飲み物と交換できるのかな?」
 バーナビーのお供で横入りしてしまったから、この店の一般的なルールがわからない。イワンがたぶん、と言おうとすると女の子たちが笑い声をあげた。
「そうだよ! 入場料にドリンク一杯分の値段が入ってるの。え、なに? この店がっていうか、クラブ初めて?!」
「ああ、そうなんだ。親切にありがとう」
 ムッとするでもなくキースは微笑んで答える。女の子二人は顔を見合わせた。ささやきあっている口の動きがまじで? とか、何者? とか動いているのが見える。
「じゃあ私もビールを貰おうかな」
 さっきイワンが並んだときよりバーカウンターの列は短くなっていた。ほどなくキースのコインとビールが交換される。
 イワンも、どこに捨てるのかわからない空の瓶を手渡そうとしたら同じ瓶が差し出されてしまった。冷えた瓶を突き出しながらバーテンダーの口が動く。値段を言われている。思わず紙幣を渡してしまうと、素早く釣銭が返ってきた。
 ああどうしてこうなんだろう、と冷えた瓶を握り直しながらイワンは思う。違います、と言えばよかったのに。幸い、バーテンダーが機敏だったのと、反射的に金を渡したイワンの動きも素早すぎたためにキースが見咎めた様子はなかった。
 まぁいいか、と一口呷る。冷たい炭酸が喉を刺激する。美味しい。お客が増えて、店内の温度も上がっているみたいだった。
 女の子たちに一言言ったほうがいいのかなと振り返ると、彼女たちは既にカウンターを離れてラウンジを横切ろうとしていた。奥に、二階へ続く階段が見える。当人は気づかぬままだったが、彼女たちはイワンとお近づきになりたくて声をかけてきたのだ。そこに恋人が登場してしまったのでは他所に行くしかない。
「行こうか」とキースが言い、イワンもうなずいた。地下へ降りる階段を目指して、揺れる人波の間を抜けていく。
 辿り着いた階段の手前で思わず驚きの声をあげてしまう。
 思ったより広い階段の、天井といわず壁といわず真っ赤に塗られていた。足元に小さな非常口のランプはあるだけで、天井や壁の灯りまでが赤い。
 壁にはスピーカーがついていて、1階でDJがかけていたものと同じ音がそこから降ってくる。普通の建物よりゆるい段差の、広めにとられたステップのあちこちで体をくねらせている人、酒を飲みながら笑い合っている人がいる。彼らの間を抜けて上り下りしなければいけないのだ。
 すれ違おうとしていた男の手の中でグラスが滑りかけて、イワンはそれを避けようとした。思わず、前を歩いていたキースを押すようにしてしまう。
「あっ、すいません」
 指が、キースの着ているリネン素材のカーディガンに触れていた。麻のサラリとした感触が気持ちいい。慌ててその手を下ろす。
「大丈夫かい」
「あ、はい」
 キースも、イワンが誰かとの接触を避けようとしたことはわかったらしい。
 イワンはさっきくらいの距離をとろうと体を引く。すると、キースは一度動きを止めて振り返ってきた。斜め後ろに立つイワンの手にキースは自分の手を寄せる。
 ふたたび前に進むときには、二人の手は繋がっていた。
 イワンはキースを見上げそうになって、なんだかそれでは非難しているみたいだと二つの繋がった手を見つめる。それだって何だか意味深だと思っていると「確か」とキースが言う。
「こういうところでは汚れてもいい服で来るべきなんだったね」
「そうですね」
 今日の昼間、バーナビーに質問したことだ。
「私は、これを貸してくれた人から、どうか気をつけてくれと念を押されてね」
 キースはビール瓶の底でデニムを指す。
「え? ヴィンテージとか、そういうのですか?」
「ネイサンくんの店の従業員の私物らしいんだ。彼が手をかけてこういう状態にしたんだとかで。問答無用でオーナーが借り上げたみたいでね」
「ああ…借りものなんですね。僕もですけど」
 でも、とイワンが小さく笑う。
「もし何かあっても、そのときはそのときですよ」
 キースはワンテンポ遅れてクスリと笑う。
「きみは時々、急に大胆というか大雑把になるね」
「え、だって」
「いや、わかるよ。確かにどうしようもないことだけど」
 キースは笑いを滲ませた声でそう言って、肩を揺らしている。
 そんなに可笑しかったかな、とイワンは不思議に思った。失敗を笑われるなら別に構わないのだけれど、こういうのは妙に気恥ずかしい。
 そういえば、とイワンは思い出す。
 通りすがりに声をかけてきた大人の女性がいた。「探してたよ」と言ったのは、もしかしてキースのことだったのだろうか。あとはバーナビーくらいしか知り合いはいない。バーナビーからの伝言だったら、そう言ってくれそうなものだ。彼は有名人だ。
 しかし、キースがキョロキョロしていたからといって、なぜイワンを探しているとわかったのだろう。それとも、女性がイワンを誰かと間違えて声をかけたのか。というより、すべて思い過ごしだろうか。
「……あの」
「うん?」
「誰かに僕を探しているって言いました?」
 こういう人とかに、とさっきの女性の特徴を伝える。
「その女性なら一緒に入場してきた人だろう。でも会話はしていないな。彼女は顔パスだったよ」
「へぇ…」
「どうして?」
「なぜか、僕がキースさんの連れだって分かったみたいだったので」
「なぜだろうね?」
 キースは素早く振り返った。
「誰から見てもしっくりきて見えるなら、嬉しいけど」
「え、そんな…ないですよ」
 イワンはもそもそと反論する。キースは顔を前に戻してしまったので、聞こえたかどうかわからない。
 長い階段だった。ステージ部分にかなりの高さを使っているのだろう。ようやく二人は地下に降りた。
 地下に着いても二人の手は指どうしを引っかけたような恰好でゆるく繋がったままだった。
 入口のあたりは青い照明で照らされていて、急に雰囲気が変わる。壁から直接突き出したベンチに腰を下ろしていた人物が立ち上がるのが見えた。行き交う人越しにだけれどなぜだかその動きはイワンの目を引いた。
 青い光の膜から出てきてようやく、それがバーナビーだと気がつく。
「間に合いましたね。ああ、その服、あの方の見立てですか」
「やあ。そうなんだよ」
 キースが片手をあげて挨拶を返す。その姿を横目で見ながら、自分の手の中からキースの手が抜け出たことにイワンは気がついた。さっきまで触れていた体温が消えただけなのに、何だか指先がスカスカして感じられてしまう。
「地下はケータイの電波が不安定で。上に戻って呼ぶべきか考えてたところですよ」
「やきもきさせて済まないね。もう始まるのかな?」
「まだ大丈夫です。ベースを弾くはずの人間があの中でまだ話し込んでますから」
 さっきまでバーナビーと並んでベンチに座っていた男が立ち上がって、そう言った。彼が指す先――バーカウンターの脇のドアがVIPルームの入り口なのだろう。
 バーナビーが、彼がオーガナイザーだと紹介してくれた。小柄で痩せていて、飾り気のないTシャツと穿き込んだレザーパンツに坊主頭。年齢はよくわからない。二人に会釈を寄越す。
「もしよかったら中から座って観ますか? 客席の一番後ろになっちゃいますけど、床が高くなっているからまぁ見えますよ」
 柔和な表情で誘ってくれる。キースはイワンの表情を窺った。
「折角です、けど」
 イワンがそう答えると、気を悪くしたふうでもなく笑顔が返ってくる。
「そうですね。ぜひ間近で見てください」
 バーナビーが茶化すように続けた。
「今ここのVIPルームはすごいですよ。男性ばかりで酒も飲まずに仕事の話をしています。会議室に迷い込んだ気がしましたよ。客席のほうがお勧めです」
「ははは、次はこういうコンセプトでやろうとか、誰それを呼ぼうとかで盛り上がってしまって」
 じゃあ、とバーカウンターの脇で二組に分かれて、キースとイワンは防音仕様のドアへと向かった。
 バーナビーたちはVIPルームに戻る。
「さっきのお友達にフライヤーとかポスターに出てもらうことは可能でしょうか?」
 さすがは評判のオーガナイザーだ、とバーナビーは感心する。いつ、どこでもアンテナを張り巡らせているらしい。
「どうでしょう。二人ともけっこう堅い会社に勤めているんですよ、あれで」
「アポロンの人じゃないんですか? タレントとかでも?」
 ヒーローというのはタレントの一種のような気もするが。とりあえずバーナビーは黙って微笑んでおいた。
「素敵なカップルじゃないですか。あれって、さり気なくペアルックになってましたよね?」
 同じブランドの同じラインの、チョーカーとブレスレット。それから、色違いになっているインナーのTシャツ。ワークブーツとトレッキングシューズも同じブランドのものだ。二人のコーディネートのシルエットも、モノトーンの使い方も似せてあるし、見る人が見ればわかる。
 バーナビーから画像つきの返信メールを受け取ったネイサンが用意させたものに違いない。経営するクラブに勤める若者たちはファッションマニアも多そうだ。イワンのほうをプロのスタイリストに任せたので、それに似せれば良いのも楽だったろう。
「さり気なかったですか?」
 ふふっ、と笑ってしまう。たぶん、本人たちは気がついていないだろう。
「……いや、さり気ないのかもしれませんね」
 そうだ、本人が気づかないのだから。これ以上なくささやかなペアルックだ。
 一人でクスクスと笑い出したバーナビーに、オーガナイザーは困り顔になる。
「アルコールもないのに楽しそうになっちゃってますけど、一杯やりながらステージを観ませんか?」
「失礼しました。いただきます。そうですね、友情にでも乾杯しましょう」


 防音扉の向こうは、人で溢れていた。
「……うわ」
 足を止めたイワンにキースが振り返る。
「どうしようか。さっきの提案を――」
 今からでもVIPルームから観たらどうかと言おうとしているらしい。
 慌てて首を振り返す。ちょっと心配そうに眉を寄せたキースが顔を前に戻した。
 イワンは息をつく。これでは本当に子どもみたいだ。
 1階と同じように天井からのライトで床に店のロゴマークが映し出される。いま、ほとんど床は見えない。お客の顔を、体を、七色に変わっていくロゴマークが流れていく。
 この建物の入り口で入場制限をしているのだろうに、会場には人が増えていた。示し合わせたように、全員が一歩、また半歩とステージへ近づいてゆく。
 勿論、二人もその波に揺られるようにして前へ運ばれていく。誰かがイワンの肩を小突くというほどでもなく触れていった。斜め前に押し出されたタイミングで手を伸ばす。隣にいる人の淡いグレイのカーディガンの背中へ。指先に感じる麻のサラリとした手触り。それから、その下の体温。
 今度は、大丈夫かとは訊かれなかった。
 イワンはビールの瓶を口元に運ぶ。歩くときに揺らしてしまったのかビールは泡ばっかりになっているみたいだった。でも、口から喉へと弾けるカンジは悪くない。
 キースの手が持ち上げられて、落ち着く場所を探すように少し遊びを見せてからイワンの肩に置かれた。首に、というよりカーディガンの襟元を指がなぞる。
 くすぐったさを訴えようかと隣を見上げると、キースの視線はもうこちらに向いていた。
 改まった顔に見下ろされている。その顔が斜めに降りてきて、耳元で尋ねられた。
「さっきの女の子たちは知り合いかい?」
 イワンも首を斜めに伸ばしてささやく。
「いいえ。全然」
「楽しそうに笑ってたけど」
「共通項があって」
「どんな?」
 イワンが元の位置に顔を戻すと、キースは不思議そうな表情を浮かべているように見えた。
 共通項は、三人ともがスカイハイのファンだということだ。キースを指そうとしていた人差し指をイワンは自分の唇の前に立てる。
「秘密です」
「本当に?」
 本当にって何だろう。イワンが聞き返す前に尋ね直される。
「言えないようなことかい」
「違いますよ。いまのは冗談です」
 イワンは思わず笑みを浮かべた。釣られたようにキースも笑う。笑いながら、まるで咎めるように首の付け根をキースの指がきゅっと掴んでくる。
 その姿勢で視線を合わせたまま、キースはビールを呷った。半眼になった瞳が、それでもイワンの方を向いている。ごくり、と喉仏が動くのが見えた。
「何を話してたのか聞いちゃいけないかな?」
 瓶を口の前から退けて、キースは言う。 
 なぜだか、イワンは急に言葉に詰まってしまった。
 三人で話していたのは、簡単な自己紹介と(イワンは言葉を濁してハッキリとは語らなかった)、それからこの街の話だ。
 いいところだけど、もちろん好きだけれど、どこかしっくり来ないというか気恥ずかしいのだということ。美しい、模型のような街並みのこと。それで三人はうなずきあった。
 どっちの子がどう言って、それでもう一人がこう言い返して。そう説明すれば出来ないことではないけれど、それではさっきのあの雰囲気は伝わらないような気がした。かと言って、今からさっきのバーカウンターに戻れば伝わるかと言えば、それも何だか心許ないことのようにイワンには思えた。
「……すまない」
 言葉を切ったままのイワンの態度をどう受け取ったものか、キースは顔を前に戻した。肩と首の間に置かれた手からも力が抜ける。
 イワンが口を開こうとするより素早く、キースはまた横を向いた。
「笑って話していただけなのに」
「え?」
「きみが、誰かと」
 イワンのすぐ前では、久しぶりの再会を果たしたのだろう女性二人が互いに歓声をあげている。
 競うように喋りあう女性二人の声に掻き消されそうになって、キースはイワンの耳元で一語一語を区切るように言った。
「それだけなのに、落ち着かなくなって。私が悪い」
「え…ええと……?」
「昼間だってそうだ。勧められないとか安全とは言いがたい――余計なことばかり――どころか大人げないのは私のほうだ。――だから」
 次第に早口に小声になっていくキースの声が時々聞き取れなくなってゆく。
 言うだけ言って体を元に戻そうとするキースの、その背中に触れている自分の指を思い出して、イワンはぎゅっとリネンのカーディガンを掴む。
「……あの」
 キースの指も、そこに位置を取っていることを思い出したように、イワンの襟元のカーブをゆっくりと往復する。
「あの、あそこの人たち、すごく親しく見えますよね」
「そうだね」
 切り替わる照明の下、観客は互いに距離のない状態だ。イワンが飲みかけのビールを掲げる先でも男女のシルエットが額をくっつけあっていた。
「向こうだって、そっちだってそう見えますけど、単にこうしないと会話にならないだけなのかも」
「ええ?」
 強い、濃い色の照明。ずっと鳴っている音楽。誰もが体を揺らしている。そんな、建物全体がうねるような空間の中で、そんなふうにでもしないとコミュニケーションが取れない。
「ハッキリ笑わないと、笑っているかわからなくて」
 いまも、キースの上を赤い光が撫でるように通り過ぎた。瞳の色もいつものような青には見えない。
 短い言葉で簡潔に伝えないと、相手には聞き取れない。自分だってそうだ。ちょっと聞き取れなかったくらいでは聞き返しづらくて、向こうが笑っているなら笑みを浮かべて済ませてしまったりする。
「キースさん」
 たぶん少し整えられたのだろう、いつもとは別人のようにも見えるキースの眉がぴくりと動く。
「シュテルンビルト、好きですか?」
「ああ」
 キースは笑った。パッと明るい笑顔を見せる。キースの上を移動していく光がグリーンからオレンジに変わるが、それでも朝の光みたいな明るい笑顔だとわかる。
「さっきも、三人ともこの街いいよねって言ってたんです」
 本当はそれだけじゃないのだけれど、細かいことは伝わりそうにない。
「そう」
「はい」
「……ねえ」
 キースが何かを考えるような表情を一瞬浮かべて、それからまた笑顔になった。今度は、少し悪戯でも思いついたような。
「これ、どうなっているんだい?」
 イワンの肩に置いていた手をそっと胸の方へ移動させる。イワンの着ているのはカーディガンといっても前が緩やかなドレープを描いていた。その襞をキースの指が辿る。
「え? あ、あの、肩の下のボタンで留まっていて……」
 急に別のことを話題に持ち出されて、イワンが慌てて説明をする。片手はキースの背に回したままなので、ビール瓶の底でボタンの位置を示した。
「ああ、本当だ」
 キースは中指の先でくるりとボタンの輪郭をなぞる。そして、それを外してしまった。
「外すとストールでも巻いているみたいになるね」そんなことを言う。
 イワンがきょとんとしていると「寒い?」と訊いてくる。首を左右に振った。混雑で暑いほどだ。
「中に着ているこれは」
 これ、というのはカットソーのことだろうか。キースの指が襟のラインに沿って降りていって、ふいにそこから横へ、鎖骨のつくる影のほうへと逸れていく。
「私のと色違いかな」
「……へ?」
 よく見ようとしてキースの胸元へ顔を近づけると、インナーよりもその上に下がった銀のアクセサリーにイワンの目は引き寄せられた。
 イワンの手首に巻かれたブレスレットにも同じモチーフの飾りがついている。いまはキースの背に巻いている手だ。キースからは見えない。
「違うかな? でも、裾のところが、何て言うんだったかな、こういう」
「アシンメトリー?」
「そう、それだ」
 ステージの上では準備をしていたスタッフがぱらぱらと袖に引き上げようとしていた。お目当てのステージが始まろうとしている。
 それなのに、イワンはもう少しだけ演奏の開始を遅らせてほしいと思っていた。このままずっと、ここで立っていてもいいような気分だった。
 周りには大勢の人たちがいる。さっきから爪先が前の人の踵を突いてしまいそうなくらいだし、隣の女性が身をくねらせるたびに肘がかすめそうだ。
 けれど、周囲の人なんてたとえそれが何百人でも、なぜだか気にならない気がした。誰もが期待に満ちた顔をして、それでいて焦れて、酒を呷って、笑い合って。それらの声もざわめきも、なんだか全部遠くにあるような。
 イワンはキースの首筋にこめかみを押し当てた。
 親しく見えるかどうか、恋人らしく見えるかどうかなんてどうでもいいのだ。そう思う。
 隣にいて、自分の心の中がしっくりくればいい。隣にいなくても、この人が世の中にいるというだけで、上手く言えないけれど納得ができればいいのだ。
 いつになったらそう思えるのだろう。話しかけられても飛び上がらなくなったら。もっとキスがうまくなったら。抱き合うことに慣れたら。それとも、一生そんな気分にはなれないのだろうか。
 スタッフと入れ替わるように男性が舞台に上がる。一人。二人、三人四人。拍手と歓声が沸き起こり、イワンはそれが今夜聴きに来たバンドのメンバーだと知った。四人がそれぞれに会釈したり手を振り返したりしながら自分の楽器の位置へ収まる。
 これ以上詰められることなんて出来そうにないと思っていたのに、観客はみんなたたらを踏むみたいな足取りで数歩ステージに迫った。急に周囲の熱量があがる。
 バラバラに試しに音を出しているような調子で、ドラムが、キーボードが、ベースが、サックスが短くそれぞれに楽器を鳴らす。そのうちにキーボードが切れ切れのようなメロディーを空気の中に置いていく。シンバルがひときわ大きく鳴った、と思った瞬間、曲が始まった。
 もう誰も喋ってなんていなかった。音楽の中に放り込まれたように自然に誰もが揺れて、楽器が唸り、囁き、吠えるのに体で応えるだけだ。
 演奏の合間に拍手と歓声が起こる。演奏に負けないほどのうねるようなその音の中で、ミュージシャンは四人とも何でもないとでもいうような顔で微笑んでいたり、自分の楽器に向かってただうなずいていたりする。音楽は自分たちとは無関係とでもいうような態度がおかしかった。
 ああこれはアルバムに入っていた曲だ、アレンジが…はじめはそんなことを考えていたのに、いつの間にか何も考えられなくなっていた。ひっきりなしに色の変わるライトに照らされて、ダンスとも呼べないようなやり方で体を動かして。指を絡めたり、髪に触れられたりして。空気が震えて。スモークの匂いがして。
 また曲が終わり、何度目かの拍手が湧く。サックスを吹いていた男が笑顔で大きく手を振ると、次が最後の演奏だと告げた。足を踏み鳴らす音と哀願の声が沸き起こる。
 ミュージシャンたちはお互いに苦笑を交わすと、客の了承など得ずに最後の曲を始めてしまう。慌てて客たちが口を噤んだ。
 素朴にも思えるメロディー、懐かしいようなフレーズが繰り返され、ひろがってゆく。
 ステージの奥のスクリーンには、どこかの街の風景が映し出されていた。最近はDJだけではなく、VJという役割の人もいるのだと聞いたことはある。曲とフロアの盛り上がりに合わせてその場で映像を流すのだ。
 薄暗い高架下、橋から見下ろす川面、街路樹の木漏れ日、コミカルな看板、向かいの建物を反射しているらしいガラス張りのビル。
「あ」
 イワンはつぶやいて、隣にいるキースを見上げた。目があうとキースは笑って、ビール瓶を持つ手の人差し指だけを折り曲げると床を指した。
 唇が、ここだ、と動く。イワンもうなずいた。
 スクリーンにはシュテルンビルトの風景が映っていた。どれくらいの割合かはわからないけれど、記憶の中にある街並みが紛れ込んでいる。
 演奏が激しく速くなり、重層的に絡みあっていく。ベースが止み、ドラムが、ピアノの音も止んで、最後にサックスが掠れるような啼き声をあげて曲が止まった。
 ステージの上ではミュージシャンが声援に応えていた。イワンはキースのほうを向く。今夜の演奏のこと、いま見た映像のこと、この雰囲気のこと、何か言おうとして何も出てこなかった。
「いいね」
 そうキースの唇が動いた気がした。声はほとんど聞こえない。イワンは小さく顎を引いた。
「いいですよね」
 こちらの声も届いているかわからない。でも、うなずいてくれたのは見えた。
「映画の中より、アルバムより、全然違っていてすごく面白くて。あの…一緒に聴いてくれてありがとう…ございました。アウェーかなって思ったけど、今日来てよかったです。すごく」
――好きです
 声を出さなかったのはわざとだ。ゆっくりと、唇を開いて、閉じる。
 言いながら、これは音楽のことなのか向かい合っている相手のことなのか、自分でもわからなくなってくる。
 伝わったのかはわからなかったが、イワンが言い終えるのと同時にキースの鼻の頭が額をかすめて、ほんの一瞬、けれどきつく抱きしめられた。
 体を離してみると、周りには少しだけスペースが出来ていた。バーカウンターへ酒を仕入れに行ったり、別のフロアに移動する客も多いようだった。逆に次のステージを目当てにしてやってくる客もいるらしい。
 どうしようか、と目で尋ねあう。背に巻かれていたキースの手が降りていくのを待って、イワンはその手首をつかんだ。
「上にも行ってみませんか?」
「え、上?」
「二階もありますよね、ここ」
 会話はもう歩き出しながらだった。
「せっかく来たんだし、行きましょう」
「大丈夫かい? 疲れていない? 眠くは?」
「平気です。いいでしょう。ちょっとだけ」
 他の客の様子を見ていたら、飲み終えたグラスや瓶はそこらのテーブルやバーカウンターの隅にでも載せておけばいいらしかった。行儀が悪いような思いは否めないが、それに従うことにする。
 また真っ赤な階段を抜けて、ステージを観る前よりも混雑しているラウンジを抜けて。DJはさっきまでとは替わっているらしかった。
「もしかして」
 キースの手を引くようにして歩いてゆくと、後ろからの声がしてイワンは振り向いた。ラウンジフロアと呼ばれているだけあって、下よりは会話ができる音量にしてくれているようだ。
「あの子たちとまた話したいの?」
「え? 話、ですか?」
 振り返った拍子に指がゆるむと、キースの手はそこをすり抜けてイワンのウエストに伸ばされた。
「だから、さっきの」
「さっき?」
 バーナビーの知り合いのオーガナイザーだったら、まだ地下のVIPルームに陣取っているのではないだろうか。まぁ、そんな部屋に入れるチャンスなんて貴重だったかもしれないけど。
「でも今から二階に……ああ!」
 階段の手前でキースの言わんとしたことに気がついて、イワンは急停止した。もう背後になってしまったバーカウンターを指す。
「二人連れの大学生の女の子のことですか、あそこで一緒にいた?」
「そうだよ、『あの子たち』って言っただろう? 大学生かどうかまで私は知らないよ」
「どうして僕がさっきの二人ともう一回喋らないといけないんですか?」
「それは…きみが上に行こうって」
「上のフロアも単純に見てみたいなぁって、だけで」
 階段を互いに追い越したがるみたいに早足で上る。イワンは自分の隣をするりと抜けていった背中を追った。
 いまの自分たちはどう見えるのだろう。次のDJのプレイかショータイムにでも急いでいるように映るのだろうか。
「あの……もしかして」
「気がついた?」
 到着した二階はまた別の音楽で溢れていた。カラフルなタイル張りの壁にミラーボールの光が弾ける。キースは隣に並ぼうとしたイワンに手を伸ばす。
「とても心が狭いって。きみの…恋人は」
 肩に手が回されて、コツンとこめかみどうしが触れ合う。
「いま、言い淀みました?」
「あー…すまない」
「いいです、別に。あと、そんなこと、ないと思いますけど」
「そんなこと?」
「だって。結局、来ちゃ駄目とは言わなかったし。結果的に一緒に来れたし」
「そう?」
「それに何にも心配されない…より……あっ!」
「えっ、何だい?」
 イワンが唐突に前のめりになる。
「あれ、人間?」
 イワンが見ているものが何なのか、キースにはわからなかった。というのも、イワンはほとんど天井スレスレの宙を見つめていたからだ。
 キースの手を半ば振りほどくようにしてイワンはバーカウンターへと足を早める。その視線を追って、キースもようやくイワンとそれから周囲の足を止めている客たちが何に歓声を上げているのかわかった。
 といっても、先ほどのイワン同様「人間?」と一瞬思ってしまったのはキースも似たようなものだ。宙に浮かんで見える女性――派手な水着のような衣装のスレンダーな女性が一人、バーカウンターの上に伸びたポールを脚で挟んでポーズを取っているのだとは、すぐには理解できずにいた。
 どよめきと女性たちの悲鳴があがったのは、彼女が唐突に脚をパッと開いてその体が逆さまに2メートルほど落下したからだ。カウンターぎりぎりの地点で彼女は手でポールを握る。笑顔で驚いた顔の客を眺め回した。そして、膝をポールに絡ませるとするするとまた天井近くまで昇っていく。その動きは新種の猛禽類のようだった。衣装とメイクの色合いは孔雀じみているが。
 これは、フロアに流れている音楽に乗せたダンスらしい。観客から湧いた手拍子に合わせて、宙の踊り子は手を使わずに、脚だけを組み替えながら次々と違うポーズを決めていく。
 どんどんと集まってくる人々の間をすり抜けて、キースはようやくイワンをつかまえた。ほとんど同時にダンスが終わる。ダンサーの女性は遠心力を利用して大きく回りながらポールから降りてくると、カウンターの上に寝そべるようにして歓声に応えたあと、床に降り立った。
 拍手を浴びたり、口々に感想を伝えられていたダンサーが眉を上げてこちらを見る。彼女は汗ばんだ顔でイワンに笑いかけた。
「よかった。会えたんだ」
「……あ、はい。さっきは、どうも」
 会釈を返すイワンの背後でキースが目を剥いた。それには気づかず「あの」とイワンは続ける。
「すごいですね。片脚だけで逆さまになるのとか。それに、その靴で」
 イワンが指すのは、彼女のヒールがクリアーになったサンダルだ。爪先も高くなっていて踵は20センチ近くあるだろう。
「器械体操の人のほうが技はすごいよ。今の、ちゃんとダンスに見えた?」
「はい、もちろん」
「何か月か練習すれば逆さまで手を離すのなんて出来るようになるよ。度胸さえあれば。スクールも幾つかあるしね。うちに来る?」
 えっ、教えてくれるところが、と鼻息を荒くするイワンの後ろで困り顔をしているキースに気がついて、ダンサーは笑い出した。「じゃあ。良い夜を」と身を翻す。
「……また知り合いかい?」
「今の人ですよ、キースさんと一緒に入場したっていう女の人。僕に『探してたよ』って言って通った」
「本当に?」
 店に入ってくる段階では普段着にナチュラルメークだった、と思う。しかしキースには、あまりにも印象的な衣装とダンスのせいで一時間かそこらの前のことが思い出せなかった。
 目を白黒させているキースに、イワンは申し訳なさそうになる。
「あの、今のは……活かせないかな、と一瞬思ってしまって」
 イワンがキースの耳元に唇を寄せる。
「ヒーローのときに」
「ヒ……? え?」
「ちょっと参考になるかな、と。ほら、あの靴とか、僕のと似てません?」
 キースが首を曲げて、二人の額がくっつくほどの距離に近づいた。
「靴……く、っ…はははは…っ……」
 片手で顔を覆って笑いはじめるキースに、今度はイワンが驚いた顔になる。
「えっ、な、何ですか?! 何で笑ってるんですか?!」
「だ、って…今度は……ははは…あんなふうに、登場…するのか、と……あははは……」
「ちが、だから参考に、って! そんなに笑わなくても…あの……」
「いや、笑ったらいけないね、きみの探究心を……」
 そこまで言いながら、キースは体を折るようにして顔をそむけてしまう。イワンは唇を尖らせた。
「ああもう、そんなに馬鹿にするなら、僕は来週からさっきの人のところに教わりにいきます。それで習得してきますから」
「ええ?!」
「そうと決まったら帰ってネット検索をします」
「せっかく来たんだからもう少し見て帰ろうって言ってなかったかな、ねえ?」
「そうでしたっけ」とそっぽを向くイワンも「絶対そう言ってたよ」と追いすがるようなポーズを取るキースも、二人ともふざけ半分だ。演技も続けられなくなって、途中で笑い出してしまう。
 おさまらない笑いの中で、もうしばらく二人はここで音楽と人波に揺すられて夜を過ごすことに決めていた。



「……んん」
 朝の光の鋭さに目を覚ます。
 まだ眠い。昨夜は遅かったのだ。もう一度毛布を被りなおそうとして、イワンは顔をあげた。枕元から陽が射している。この向きから早い時間の陽が当たることは、自宅なら、ない――。
 イワンが跳ね起きたのと、その部屋のドアがそっと開けられたのはほとんど同時だった。ドアの隙間からひょっこりと覗いた顔が、飛び起きたイワンに驚いてビクリと揺れる。
「驚かせた、かな」
 咄嗟にはい、ともいいえ、とも言えずイワンはベッドの上で正座していた。どちらかと言えばイワンのほうが驚かせた側な気もする。
「だ、大丈夫、です」
 どうにかそう答えると、ドアが大きく開いてキースの全身が現れた。
「よかった。おはよう」
 イワンが上目遣いに見たキースは、いつも通りの服と髪型だった。昨夜の借り物の服はもう脱いでしまったらしい。そのまま視線を下げる。イワンはまだ昨夜のカットソーを着ていた。手首に巻かれたシルバーのアクセサリー。頭に手を持っていくと、整髪料をつけたまま寝てしまったせいで前髪がゴワついている。
「おはよう、ございます」
 自分だけがまだ昨日の(日付的には今日なのだが)浮ついた気分を引きずっているようでバツが悪い。
 あのあと、まだしばらくはしゃいでいたが、いくら何でも徹夜というわけにはいかないと、同じタクシーに乗り込んだ。二人とも大して酔ってはいなかったが、イワンはバックシートで舟を漕ぐ始末だった。うつらうつらしている間にタクシーが止まり、降ろされてみるとここ――キースの住まいだった。
 リビングで眠っているジョンを眺めながら通り過ぎ、うろたえることも腹を括ることも出来なくてぼぅっとしているうちにイワンは客間に押し込まれていた。
 おやすみ、の短い挨拶とともにパタンとドアが閉まって。
――いきなりそんなことになっても確かに困るけど。
 イワンは諦めたようにベッドにもぐりながら息をついた。
――だからって、こんなの隔離みたいだ……。
 そんなに手を焼かせただろうか。それとも、あまりにおかしなテンションだったのか。ちょっと前まで笑い合っていたはずなのに。ぐるぐる考えていたが、頭を枕に載せてしまうと眠さには勝てなかった。
 モジモジと座りなおそうとして、おかしな感触に気づく。
「……あれ?」
「どうかしたかい?」
 とにかく眠くてそのまま横になったはずが、なぜかあの特徴的なサルエルパンツを穿いていない。脛も腿も素肌がシーツに触れている。
「まさか…あの……」
 部屋の中央に進みながらキースはイワンを見た。二人とも驚いた顔をして見つめ合う。
「ズボンがないんですけど……覚えてない……まさか、僕、どっかで脱い――…え?」
「い、いくら何でもそんな酷いことはしないよ! アルコールの入って眠りこけるイワンくんに、そんな――…え?」
 お互いに早口で言い合ってから、話が食い違っていると気づいて口を閉ざす。
「えっ、いやあの、僕は変にはしゃいで、まさかとは思いますけど自分で外で服を脱いだのかと……だって、カーディガンもないし」
「ああ、カーディガンならさっきリビングで見たよ」
「そっか…じゃあ、廊下で脱いじゃっ…た、んですかね」
「いや、ここに」
 キースは屈んで床の上から何かを拾い上げる。それは確かに昨夜イワンの身に着けていたサルエルパンツだった。
「きっと寝ている間に邪魔に思って蹴り出したんじゃないかな」
「そ、ですか……よかった……通りとかで脱いでなくて」
「それは困る! そして、そんなハプニングなら絶対に阻止するとも!」
「そう、ですよね……ははは……」
 力なくイワンは笑った。眠りから覚めたばかりなのに、またドッと疲れてしまった気がする。
「ええとね、イワンくん」
 キースが済まなそうに言う。
「申し訳ないけれど、そろそろ出かけないといけないんだ。シャワーや冷蔵庫の中身は適当に使ってくれて構わないから」
「じゃあ僕も帰ります! 朝食とかは、自宅で」
 イワンは言いながら立ち上がりかけたが、下着一枚だと思い至ってまたしゃがみこんだ。
「あ! ああ、ここに置くから」
 枕元にサルエルパンツを放り投げるようにして、キースはそそくさと部屋を出ていく。
 身支度をしたイワンがすぐに客間を出ると、キースは廊下に立っていた。
「……お待たせ、しました」
 もう出ると言ったのに、キースは動かない。
「昨日は、楽しかったね」
「えっ、はい」
「……でも、何というか、ああいう雰囲気のまま、きみを連れて来たりしたのは……」
「僕は、嬉しかったです、けど」
 そう? とキースが視線を下げ、二人の目が合う。
「やっと引っ張りこめたという気がしないでもないけど」
「ひ――」
「おかしな言い方かな。でも、そうだね。昨日の勢いに任せておけばよかった、なんて後悔しないように努力するよ」
 歯を見せるキースに、イワンは顔を歪ませた。
「そ…それって、本人に言うべきことじゃ…ないんじゃ……」
「宣言しておいたほうがいいかな、と思って」
 リビングに一瞬だけ足を踏み入れて、キースはカーディガンを取ってくれる。それを受け取りながら、イワンはつぶやいた。
 それは小さな声だったけれど、玄関の手前でこの部屋の主の耳にはしっかり届いた。一人と一頭だけが住む家は静かだ。昨夜のクラブとは違う。
「……聞かなかったことには、できませんけど」
 キースはドアを閉めながら、片方の眉だけをほんの少し上げてみせた。


 このすぐ後に、いかにも朝帰り然としたイワンが何人もに目撃されて憶測を呼んだりしてしまうのだが、エレベーターを待つ間に指を絡ませている二人には予想もしないことだった。


■ END ■
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Posted on 2012/06/05 Tue. 23:20 [edit]

category: SS(空折)

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